
日加学園は、1978年に創立して2023年9月で45年目を迎えました。1998年12月には創立20周年記念祝賀会を催し、盛大に祝うことが出来ました。その際にまとめた記念誌に、学園創立当時の関係者の、今まで公には語られなかった苦労話などが収められています。
今、ここで改めてそれらの寄稿文の一部を記載させていただき、これからの日加学園の指針の一つにしたいと思っています。(転載了承済み)
言葉と文化 中村萬里、路子
青春の思い出 山下実
日加学園20年の歩み 今井輝雄
共に精一杯 松井 浄
3回の危機、12年間の思い出 長石芳尚
親の欲と日加学園 藤田米造
親の手作り、日加学園 三浦信義
学園への想い 浜場真喜子
言葉と文化 中村萬里、路子
言葉と文化が密接に関連していることは、母国から離れ、言葉の違う国に住んでいる人が、毎日の生活の中でいつも感じていることに違いない。
私達は、26年トロントで生活している間に、様々な人と知り合ったが、特にここ3年あまり、現代美術館設立の為にいろいろな立場にある日系カナダ人と関わってきた。
そして、彼等が、日本人の祖先を持っているとはいえ、日本文化への理解や価値観が大変に異なっている事に気が付く。ましてや英語の環境で育った人々と、日本語環境から英語環境に途中から変わった我々とでは、その概念は違っていてあたりまえといえよう。どれだけ生活に根ざした言葉が大切かを痛感した。
多くの戦後移住者の家族が子供達を育てるにあたり、少なからず1度は考えて決断することの一つは、何語で子供達を育てるかという事だろう。一歩外へ出ればすべて英語の社会で、何ゆえ親子ともに苦労して日本語にこだわったのだろう?
借り物の言葉では、決して伝えられない本質的な大切なものを、伝えたかったからである。日本語は私達にとっては、何の疑いもなく自信を持って自由に使える言葉であると同時に、長く培われ、受け継いだ文化がぎっしり詰まった道具とも言える。
子供達と交わす何気ない日常のやり取りのうちに、それに付随した様々な価値観を自然な形で示すことになる。それは同時に、親のもつ文化的アイデンティティーを子供達が共有出来る基礎を準備したことになる。子供達にとっては、さしたる努力もなしに言葉を通して、親の持っている文化を受け継ぐことができるわけで、これは、大人になってから学ぶ外国語とどんなに違うかは,私達にとっての英語を考えれば容易にわかる。子供達にとってみれば第一言語である英語の概念に加え、それは自分の持っている特性の幅を広げ、視野を立体的にすることでもある。
「日本語で日本語教育を受けさせたい」という思いを共有した親達が集まり、1975年に設立の準備のための調査が始められた。教育方針を創るところから出発し、日本の小学生の使用済みの教科書を譲り受けて、国語教室の名のもとに発足した。後に親の教育に対する考え方の違いから、別れて日加学園として別の学校をつくりだし、早くも20年の歴史を経ることとなった。
優秀な先生方,熱心な理事会と父兄の惜しみない協力を得て、「日本語を話す家庭のカナダ人としての生徒達にふさわしい日本語教育」という難しい任務を着々と果たして、その成果は自明(めい)である。
我が家では、成人した息子達と、折につけ歴史、哲学、宗教、芸術に至るまで日本語で話し合えるのは楽しく、視点の違いに驚かされる。
卒業生達が、それぞれの才能を大いに活かし、カナダ、日本に限らず世界中で活躍しているのは、嬉しい限りである。彼等が、自分達の次の世代に親から受け継いだ言葉、即ち、文化を受け渡していくことを願っている。

青春の思い出 山下実
8月も半ばを過ぎ、トロントでは朝夕は涼しくなっているあと思いますが、ここ霧島では連日37度近くの暑さが続いています。…と手紙みたいな書き出しですが、浜場校長から依頼を受けた日加学園創立20周年への寄稿に、退化した日本語文章力に苦しみながらの作文となりました
月並みながら、月日の経つのは早いもので、日加学園を卒業した娘の4歳になる子供から、「G−ちゃん」と呼ばれるようになり、老化現象が始まりそうな我が身を思えば、日加学園に20年が過ぎたのにも実感がわいてきます。
確かに,有志の方々と創立にかかわりましたが、いろいろ状況が変化したであろうこの20年間、日加学園を守り育ててこられた先生、父母の方々のご苦労と努力に、忙しさにかまけてお手伝いを怠った私としてはただ感謝するのみです。
前おきみたいな事ばかりでは、創立の頃の思い出でもと云う浜場校長からのご依頼の主旨に反しますので、気ままに振り返ってみたいと思います。
1960年代後半に始まった、いわゆる「新移住者」にも、1970年代半ばになると学齢期に達する子供の数も増え始め、我々の子供にも日本文化、日本語を学んで欲しいと云う話が出始めました。
創立に関係したこともあり、私の子供は最初は補習校に行っていましたが、我々移住者に合った学校をということで、有志の方々と、日系二世の方々が主体となって運営されていた日本語学校オーデ校の一部として「国語教室」を始めました。
しかし、二、三世の子供さん等、初めて日本語に接する生徒さんを対象にしたオーデ校と、日本語を使用している家庭の子供を対象とする国語教室では、教育方針、教材等も当然異なるので、お世話になったオーデ校の方々と相談して、改めて独立した国語教室としてヒューロン校を借りて出発し、言い出しっぺの一人である私が校長を引き受けました。
新移住者を主体としたトロントでの初めての学校(バンクーバーでは既に数校存在)であり、子供達が次々に学齢期に達した時期と相関し、急速に生徒数も増え、私たち親も若かった事もあり,活気(熱気と云った方が良いかもしれない)を帯びた学校になっていきました。
創立に関係した方々の考えは、大まか、教師と生徒を主体として父母がサポートしていくということでしたが、次第に父母の間に教育方針や運営に対する考えに違いが出てきて、熱心な議論が連日行われるようになり、肝心の授業が疎かになった観がありました。(英語でなく、日本語を自由に使って云いたい事が言えるという側面もあったかと思います。)
大別して、「教育は教師に任せ、運営は父母の有志からなる理事に任せ、父母の意見は理事を通して教師会に伝える」という創立時の有志を主体としたグループと、「父母が主体となり、教育方針,運営等全て父母全員が総会を通じて決め,教師はその方針にそって授業を行う」というグループとの意見の相違でした。
結局、生徒数も増えた事だし、それぞれの方針で別の学校として進んだほうが良いという事になり、第一グループが国語教室より分離し「日加学園」としてチャーチ校を借りて発足することになりました。
青春というには年を取りすぎていたとは思いますが、カナダでの新しい人生としては、青春時代に燃やした情熱として私の人生に残る重要な一つです。
私は何事も造り、始めるということは、どちらかというと得意な方ですが、守り育てるということは全く苦手で、その点、日加学園は良い先生、父母の方々に恵まれたので二十周年を迎えることが出来ました。
新しく日本から移住してくる人が減った今、いわゆる「新移住者」も戦前移住された方々と同じように、二、三世となり、家庭で日本語に日常的に接する子供の数は減り、学校の教育方法も変わり、運営も難しくなっていくと思います。この点は他の日本語学校にとっても同様な事が言えるかも知れません。
しかし、二十年という長い間、日加学園を守り育てて来られた努力に、続く新しい御父母によって次の三十周年に向かって進んでいくものと信じます。

日加学園20年の歩み 今井輝雄
今年6月を以って、日加学園も満20年を無事終了したことになります。
日加学園の歴史は一口に言って先生方が教育し易い環境作りに学校全体が努力を重ねてきた姿の歴史であったように思います。
三十数名の生徒でスタートした学園も二年目には少し落ち着いてきて、いろいろな事が決められ動き出します。
運営資金集めの目的で、バルーチャさんの提案によるベークセールがスタートし、この年には早々と第一期の卒業生を送り出しました。この時、証書に欠かせない校章が必要との事で、公募した案の中から役員が手を加えた現在の校章が出来上がりました。
3年目には成人教室も始まりました。これは生徒を待つ父母の為に、その道の専門家の人に来てもらって講義をしてもらおうというもので、話を聞きたい人は一人二、三ドル 程度払って講義を受け、一方講師の人達には学園の運営事情を予め説明し、ガソリン代だけで話をしてもらえるよう納得してもらっておりました。
講師の中には、一度受け取ったガソリン代もそのまま学園に寄付される方も多くありました。
成人教室にはこの資金集めの目的の他に、もう一つの意味もあったように思います。
それは,父母が大勢で休憩室に陣取り、学園の動きを見守っているのは、問題が起こる原因につながるという見解から来た発想でもありました。
又、この年には,家庭で日本語を殆ど使わない生徒の為に,英語で日本語を教えるクラスも一組出来ましたが、翌年には生徒が3人に減り、経済的な事情もあり、4年目の学期末にこのクラスを教えておられたバルーチャさん一家がカルフォルニアに引越しされたのを機に、このクラスは無くなりました。
5年目にはブラジル日本語学校の生徒の訪問を受け、サニーブルックパークで合同ピクニックを行い、ホームステイを引き受けて、彼らと過ごした二日間は日加学園の楽しい思い出の一つになりました。
学園も軌道に乗ったのを機会に、この年を以って初代校長の山下さんが勇退されました。
この年を境にして、毎年のように生徒が増え始め,クラスも増えてきたので、クラスの呼び名も木の名称(若葉、紅葉学級)から簡単に一組、二組と呼ぶようになりました。
クラスが少なかったころは、種を蒔いてまず双葉が出て(双葉学級)、それから若葉になり青葉になり そして一本の木に成長していく様子を示す意味でクラスの名前をこのように付けられたのですが、
後にクラスが増えてきて,紅葉クラスは良いとしても、けやき学級など生徒になじみの薄い名前は覚えにくいという不満が出て、クラスの呼び名を変えることになりました。
そして9年目にはそれまで借りていたチャーチストリートの校舎では収容しきれなくなり、現在のスカーボロの校舎を借りることになりました。
移動の時は少し生徒数が減りましたが、その翌年から又増え始め、13年目の入学時には二百人もの生徒数に膨れ上がりました。
この頃の学園の運営費は余裕すらありましたが、この年をピークに、移住者の減少から生徒数が減り始め、又、カナダ経済の悪化から、オタワ政府からの援助金が打ち切られ、教育委員会からもキッチンの使用禁止、オーディトリアム、カフェテリアは有料と伝えられ、急に事情が変わってきました。

一方、教育指導の面では、川野(校長の時に学園のカリキュラム作りをスタートさせてから、穂積校長の時に完成版が出来上がり、一貫した教育が出来るようになりました。
16年目の時には国語教室との合同運動会が開かれましたが、準備の為の役員の時間的な負担が大きすぎて一回限りに終わりました。
生徒の減少は今も続いており、将来に不安が残り、現役員の人達の苦労が予想されますが、現在の教育レベルを落とす事なく、今後とも日加学園の充実した日本語教育を願っています。
最後に、今日の日加学園の基礎作りをして下さった先輩の役員の方々、学園の事情を思い、不満をもらさず教育に専念されてこられた先生方、そしてボランティア活動を惜しみなくしてくださった父母の方々に心から感謝したいと思います。
特にベークセールが始まった年から、朝二時ごろに起き仕込を終え、120キロほど離れたビームスビルから時間に遅れる事もなく、毎回みんなの前で寿司を巻いてベークセールを盛り上げて下さった山田さん、それに子供さんはずっと以前に学園とは縁が切れているのに、クリスマス発表会には今も、もちをついて下さっている小林さんには頭が下がります。
白いはちまきにハッピ姿の小林さんが臼でもちをつく姿は、これこそ生きた日本伝統文化の貴重な存在だと思います。

共に精一杯 松井 浄
日加学園を去って久しくなり、その間、学園のゴルフ大会等で懐かしい人達の顔を見かけるたび、何となく家族の暖かさが伝わってくるのはどうしたことか。
十年の余、毎土曜日、顔を合わせていれば当然のことといえばそれまでだが、どうもそれだけだはないようだ。
我々、カナダに住む新鮮さに合わせて、異文化に違和感を感じながら、わが子供がその中でどのように育ち、どのようにして日本人である我々と家族をなしていくか、不安とともに、他人まかせではなく自分の手で最大限のことを子供にしてやる日本人作りを、特に意識されたグループであったと思う。
だからこそ、自然に熱意ある雰囲気が出来、協調性、積極性が溢れ、次の世代に残すことを精一杯共にした一体感がほのかな暖かさとして感じるのではないか。
「先生は学園のかなめ」を合い言葉に、先生の都合など思う余裕もなく、良いお礼を差し上げることも出来ず、ボランティアを押し付け、ただ、ただ「学園に来て下さい」とお願いするのみ。
ある時はレストランで役員数人で先生になる人を囲み、各々の言い分を云い、頭を下げ、押し迫るごとく。
そこに居合わせたお客はどのようにこの様子を見たことか?
皆さんの熱意が私どもを通し、伝わったのか、先生の方が一枚上だったのか、お陰で良い先生方にめぐまれ、長く学園のために努力していただき、日々の授業はもちろん、クリスマス発表会、運動会、ベークセール、空手からワープロと文化活動に発展し、着々と内容が整い、子供の学び様を発表会等で見るのは本当にうれしいことでした。
学園の経費の集まり具合も苦しい方でしたが、公私からの援助で、年を切り抜け、次の学期はどのようなことになるのかと思案していると、学期始めに、父兄から大金をポンと寄付していただいたりし、皆さん苦しい中、こんな大金を学園のためにと思うと、驚きと、尊敬と感謝の思いでいっぱい!
神様ではないかと思うほど、心温まったものでした。ここにも「しっかりやれ」という家族の激励。
年々、学園も大きくなり生徒の増加に伴い、チャーチ校の教室不足で便利なダウンタウンロケーションからどこかへ引越ししなくてはならない羽目になり、役員一同、手分けして下調べをした結果、校舎代フリー、昼間の学校からの苦情フリー、教室沢山、他の学校と共有することなし等で現在のノーマン・ベスュム校を皆さんにはかったところ、賛否両論、交通機関の不便さと、遠くなるダウンタウンと、西に住む人達の中から署名を連ねての抗議、学園が二つに分かれるのではないかと心配したのですが、これだけの好条件のところは他に比べメトロトロント近辺にはなく、この件決定とし、心機一転、学園発展に賭けるに至ったのも、多数の暖かい眼差しが故であったと思う。
娘も成人して日本語を話せることをアドヴァンテージとしたり、日本文化に興味を持ち続けているのを見ると我々の努力は実を結んでいると思う。
又、我々も長い間、英語圏に暮らす間、考え方、やり方を学び、変化し、親と子、お互いに歩み寄り理解するにいたったとすれば、ここカナダでの次の世代の努力を拍手喝采し、学園でやった事がミックス文化世代に反映していることを少しでも多く見るのが楽しみです。

3回の危機、12年間の思い出 長石芳尚
日加学園が今年で創立二十周年を迎えたそうで本当にうれしいことです。おめでとうございます。
忘れもしません、我が家のひとり娘が日加学園へ入ったのは1984年のことです。
その頃、学園はダウンタウンのチャーチ校でした。それからの12年間は、毎土曜日親子供非常な努力を払って通ったものです。もうあれから2年も過ぎた訳ですが、今、学園の創立二十周年に寄せるべくワープロに向かって当時を回想していますが一向に苦しかった事など浮かんできません。
しかし、私が学園の理事を勤めていた12年間、全く平穏無事に事が運んだかというと、それも嘘になります。
学園二十年の歴史の後半部にあたる12年間、私が主として担当した外渉の面から見たハイライトを既に脳の底の暗闇に混沌として存在している可能性があるとの認識だけは確かな、薄らいだ記憶の中から拾い出して歴史の一面を記録にとどめる努力を試みたいと思います。
私が知る12年間の日加学園には大きく見て三回の転換期、あるいは危機があったと思います。
その第一の転換期はダウンタウンのチャーチ校から今のワーデン校への移転を決定した時でしょう。
そもそもチャーチ校はいわゆる小学校で各教室には展示物、教材類が常時置いてあるため学校側とのトラブルの絶えることが無かったのです。
その上学校側から転出を要望された以上、日加学園の順調な発展を図るためには思い切って早急に移転するのが最良の道と判断した理事会は早速行動を開始し、私を含め4名の推進隊を選出したのが1986年の晩春の頃だったと思います。
私は理事になったばかりで、その当時学園の外渉は松井理事、私は千々岩氏を引き継いで中村理事と共に教務担当となっていたと記憶しています。
9月の新学期開始までの短時間に二つのことを万全を尽くして円滑に実行しなければなりません。
その一つは在校生に極力大きな負担をかけずに通学できる環境の良い場所に、日加学園という5才の幼稚園児から18才の高校生に及ぶ生徒が安全に効率よく勉学できる、しかも校長以下、職員、教師から理解が得られる学校を探し出すこと。
二つ目に、学園移転及び新校舎決定に対する生徒、父母の理解と協力を得ることです。
経緯の詳細は覚えておりませんし、この場合重要でもありませんから書きません。
スカーボロ教育委員会の二人の職員から全面的な協力を得て推薦を受けた数校の中から二校を視察して現在のワーデン校に決定し、9月の新学期と同時に山下前校長にも出席願って説明会を開いた結果大きな問題なしに生徒と父母から理解と協力を得ることが出来ました。
ワーデン校の周辺はチャーチ校と異なり、しゃれた喫茶店が近くにあるわけではありませんが、フェアービュモールもマークハムプレースもその近郊にあり、その後、バンバーサークルにもプラザが完成して父母の時間つぶしには事欠かない環境で、ダウンタウンからは遠く離れているものの、ハイウェイ近くに所在するので車で通学するかぎりなんとか我慢できる変化であったと言えるようでした。
ともかく理事一同、9月の新学期の蓋を開けた時、一部新旧の交代はあったものの 全体的には生徒数に減少が見られなかったことに大きな安堵を感じたことを思い出します。
少々余談になりますが、実際には、ワーデン校に決定する前後は本当に大変だったのです。
まず生徒の居住地がグエルフ、オークビル、ミシサウガ、メトロトロント マークハムと広い地域に散在しているため一時は思い切って西よりに校舎を探すことも考えました。
幸か不幸かスカーボロ以外にとなるとヘリテージ問題が絡んでくるのでこれは見送り。
最も理事の頭を悩ましたことは生徒と父母から理解と協力が得られるかということでした。これには理事一同何度となく止めどもない議論を繰り返したものです。

その間解決すべき課題は引越しとキャビネット、図書館、それにワーデン校が高等学校であるため机椅子が4・5才児には如何にしても高すぎるのでカーペットを使いたいがその入手が必要なことは勿論、使用許可と格納場所も必要となる。という具合で全く次々と際限なく課題が出てきました。
しかし乍、ワーデン校はチャーチ校と異なり高等学校の校舎らしくスカッとしていて真に気持ちの良い日加学園になるぞと言う喜びを感じたものです。
第二の危機はワーデン校での学校生活も軌道に乗り、学園横の名もなき公園での初夏の運動会や話し方発表会、クリスマス発表会も完全に定着した時、かねてチーフ・ケアテーカーから予告されていた通りスカーボロ教育委員会から極めて重大な通告が来ました。
それはワーデン校の校舎はスカーボロ市民による、市民のための公共施設であるから日加学園生徒のスカーボロ居住者を調査したいと言うのです。これには本当に驚きました。
スカーボロから出てヘリテージプログラムの下に入ることも一時考えたものです。
解答を躊躇しつつも調べているうちに、委員会から全生徒の三分の二がスカーボロ居住者であれば校舎の使用可能との具体的な数値がだされました。
それなら打つ手はひとつ、急遽学内の調査および生徒家族知人のスカーボロ居住者調査を行って無事、ギリギリの所でしたが計算通りのスカーボロ居住者名簿を提出することが出来ました。メデタシ、メデタシ!
毎年生徒の出入りがあるわけですから、新学期毎に教育委員会から名簿の提出を要求されとの予想に反してこの騒ぎはこれきりで、再び学園に静けさが戻ったのも束の間、第三の危機が平和な日加学園を襲ったのです。
これはなかなか厄介な問題で金がその主役になった話です。
詳しく話しても退屈な話ですからかいつまんで書きましょう。
それは市の経費削減の一対策として日加学園のような市の施設を使用する団体にその運営に係わる経費の一部を負担させようという主旨でした。
これには受け入れて要求額を支払うか日加学園がスカーボロから出るかの二つしか選択の路は無いわけです。
一難さって又一難、全く途方に暮れるニは正にこの事で、とにかく出来る限り静観することと決定しました。

とはいえ、手を拱いている訳にもいかず、委員会の本件担当者ベル氏が幸い穏かな話を聞いてくれる人物だったため、何度となく電話や面接で学園の運営方針、すなわち、すべてボランティアに頼ってカナダ生まれの日系人あるいは日本語を話す生徒に日本語と日本文化を伝える努力を払っていること、それが結局カナダの為になること等を繰り返し訴えました。
一番判断に困ったことは当初支払額が全く提示されず私達は暗闇の中で半分しか見えない敵を相手に戦わねばならなかったのです。
その当時日加学園ワーデン校、実はノーマン・ベスーン高等学校の校長スタージス氏は、当時飛ぶ鳥も落とす勢いの日本のスカーボロ唯一の日本語学校がスタージス氏の率いる高等学校に開いていること、そして日加学園が問題を起こすことなく運営されている事に誇りを感じていて、私の希望に応え、スカーボロ教育委員会に対し経費負担額決定に当たっては極力日加学園の財政状況を考慮すべきで、過大な経費負担を科して日加学園を閉鎖に追い込むことは絶対に避けるべし、ノーマン・ベスーン校として出来る援助は行う用意がある旨の手紙を書いてくれました。

以上要約を書きましたが、結論として、経費負担の一部として学園に科せられる金額はなんとか賄いうる額に収まり、その上、以前は公には禁止されていたベークセール等の募金活動が公明盛大に、しかも教育活動の推進を目的とする大義名分があるため教育委員会直属団体の募金活動に次ぐ低料金で学校施設を募金活動の為に借用出来る事となりました。
結局、結果良しとなったわけです。
ともかく学園移転当時の校長先生と現在のチーフ・ケアテーカー、トニーの貴兄、キルマーティン氏には各教室に教材その他を格納するためのキャビネットを置き、学校の物置に大きな図書館を置く許可をいただき、その後も各校長、チーフ・ケアテーカーのトニー・キルマーティン氏を始め事務職員の皆さんから本当に暖かい協力を得たことをワープロを打っていても次々と昨日の事のように思い出されてきます。
最後になりましたが、ヤマハ製のアンプシステムに触れておきましょう。
この装置を入手する以前には学園の誇るラジオシャックのアンプでした。ところが図書館と大きなキャビネットを二階の物置に移動して間もないある日、忽然と消えていることを発見し大騒ぎとなりました。
ここで同じアンプを購入せず当時学園に子供を送り、先生を勤めていたヤマハの島貫氏の仲介で音響を担当していた私の推奨が通って中古ですが正しく日加学園が誇れる多入力(舞台上に多数のマイクを設定可能にする)ファントム。マイク使用可能な、高出力プリ・メインアンプの購入となった訳です。
やはり12年間と言うと長い年月でした。書くにつれていろいろと思い出されてきます。
日加学園の創立当初からの相互に助け合う徹底的にボランティア精神に依存する学園運営システムはそれが本来の形であるとは言っても貴重なものです。
どうか、この伝統をいつまでも守って下さい。
それからもう一つ、今後も常に日本語を日本文化、風習、人生観等と切り離せない生きた「ことば」として教え、決して日本人の心から離れた単なる通信手段とならないように努力して戴きたいと切にお願い致します。
日加学園の益々の発展を心から祈っています。

親の欲と日加学園 藤田米造
二十年、なんとふた昔、こんなことばを使うと今のコンピューター時代では五十年位に勘定した方がいいですよ、と若い人たちに笑われるかもしれない。
私自身、日本を離れて初めて日本のよさと日本文化の深さが分かり、それでも今更引き返す訳にも行かず、自分の初心を曲げるには少し早すぎると思いながら、早くも二十年以上たってしまった。
息子を日加学園に入れたのも親の都合でダウンタウンに近いし、帰りに寿司でも食べてなんて不真面目な事を考えながら、あまり子供のことなど考えずに選んでしまった。
移住間もない西も東もあまり分からない者にとっては、少しでも日本語の話せる方々の仲間入りをさせていただきたく、まずは子供をだしにしてすべてが親の都合で決めてしまった。
親としてはおまえの将来にきっと役立つからと、むしろ自分に納得させながら、せっせと子供を学園に運んできたのかもしれない。
それに親の方からして見れば、将来、子供との会話がなくなることをおそれてなんとか日本語をわかる様にしたい、わかって貰いたい。
それとも将来、レイモンド・森山やデイヴィド・鈴木の様になって、日本文化の分かる外人(?)になって、すこしでも祖国日本のお役に立って欲しい(少し大袈裟かな)と、はかない夢を描きながら、親の欲の皮を精一杯膨らましてやってきたようにも思われる。
だんだんとなれてくると、恐ろしいもので親の方がはまりこんでしまい、日本いれば考えもしなかったボランティア活動にまで首を突っ込み、抜き差しならぬようになってしまった。
そのうちに、13年がアッという間に過ぎてしまい、その間、いろいろな出来事があったが、今思えばどれもこれも懐かしいことばかり、なかでも先生探しに片っ端から電話をかけて、開校ぎりぎりにやっとOKをもらったこと。
慣れないワープロに向き合って、一回でも多く子供達に漢字を見る機会を増やそうと漢字テストをつくり、そんなテストに子供も父兄も振り回し、皆が採点にキリキリ舞させられたこと。
それでも、私の職業がら時々日系二世、三世の方々とお話をする機会があるが、時々、娘が、息子がどうして子供の時、日本語の勉強をもっとプッシュしてくれなかったのかと云われるなどと話を聞くと、もっと欲の皮を突っ張ったほうがよかったのかなと後悔もしているところです。
ある父兄の方がおっしゃっていたが、「子供に日本語を教える必要がなかったら、移住者は大きな投資が出来ますよ」と、大きな投資は出来なかったが、子供を通じていろんな方と知り合いになり、いろんな井戸端会議にも参加できたし、子供をだしにしてパーティを開き、子供のことなど忘れて、ビールで乾杯などと皆さんと夜遅くまでワイワイ、ガヤガヤ、日頃のストレス解消に日本ののれんを偲びながら一パイ、まさに大きな財産。
その上、ゴルフの仲間まで出来て、いまだ学園のゴルフ大会にお呼びがかかり、いそいそとはせ参じる始末。
13年間の学園との付き合いでこんな大きな財産を得られるとは思ってもいなかった。
まさに学園さまさま。「コスミック茶話」の三浦さんに「そんなの蟻の涙よりも小さいよ」なんていわれそうですが、私にとってはこんな大きな財産を大切にしたいと思う今日このごろです。

親の手作り、日加学園 三浦信義
日加学園が創立二十周年を迎える、と聞いて気が付いた。日加学園は息子と同じ年だ。その息子は日加学園で13年間勉強し、3年前に無事卒業した。その親である僕は未だに卒業出来ず今でも日加学園にいる。これはどうした事か。
二十周年と言われれば自然に思い出すのが昔のチャーチ校時代の日加学園だ。チャーチ校はダウンタウンのアイスホッケーの殿堂メープルリーフガーデンのすぐそばにあった。
あの頃は毎朝体育館で朝礼、歌の練習、ラジオ体操があった。体育館はいつも生徒、先生、両親で一杯で、お互いにぶつからぬようラジオ体操をするのに苦労したものだ。山下校長の美声につられ、皆で「雪やコンコン、セキもコンコン」と懸命に歌ったっけ。
あそこは駐車が大変で、狭い所に車を入れてしまうと学校が終わるまで出られない。皆しぶしぶ学校にたむろし、それがボランティア供給に大きく貢献していたのではないか。
その狭い駐車場で僕の車のドアをへこませたのが今井元理事。この二十周年記念行事のリーダーシップを取っておられご苦労様です。

チャーチ校では事務室などなくて、図書室の一部で喜びも悲しみも事務も印刷もやっていた。学校の建物そのものが小学校で小さく、他に行く所もなかったから、皆図書室に集まり、誰でも自由に声を交し合い、自然に仕事を手伝う空気が合ったと思う。
それに比べると今のワーデン校は高校でだだっ広く、事務は学校の奥まった教室にたてこもり、新入生の親などは事務室の存在を発見するのにまず数年はかかっているものと睨んでいる。思い切って事務は広いカフェテリアでやったら、無関心の人達もオヤッとか思って、コロッと仕事に加わってしまうのではないかと思うのだが‥・‥・
ワーデン校に移って間もなく日加学園の事務にも技術革新の波は押し寄せ、ガチャンガチャンの輪転印刷機がコピーマシンに変わった。途端に印刷係の意気が上がらなくなった。その時になって輪転機のシンナーの匂いがいかに印刷係を支えていたのかが分かったものだ。輪転機では印刷の枚数を数えながらやらねばならない事もよくあり、頭の運動にもなったが、今はゼロックスのボタン一つでOK。
事務室のボランティアの急速な老化現象と技術の進歩は無関係ではないと思う。
それまで手書きであった学園だよりもワープロによる立派なものに変わった。同時にお知らせの文章に漢字が増えたのはワープロのせいか気のせいか‥・‥・

ワーデン校で発展した物のひとつにベークセールがある。それはもう日本の学園祭並である。その出店の種類たるや、焼きソバ、うどん、お好み焼き、太巻き実演、おしるこ、くし団子、あんみつ、などの各店がカフェテリアをぐるりと取り囲み、ぐんぐん迫ってくる感じ。思わず腹一杯食べてしまう。特に4人娘が並んで踊りながら(と僕には見えるが、あれはソバをかきまぜているだけかな)作り上げる焼きソバなどは、CITY−TVのナイトニュースか、MUCH MUSICのライブか、という位だ。OBの皆さん一度お越し下さいな。
ワーデン校で始まった行事に運動会がある。チャーチ校のコンクリートの校庭では出来なかった物だ。毎年好天に恵まれ、玉入れ、障害物競走、綱引きなど親子で楽しめる。僕は立派な(と思っている)得点掲示板を作り上げ、運動会が終わるとそそくさと我が家へ持って帰る。こうすれば来年もきてください、とお声がかかるからね。
日加学園に加わって以来非常に感心するのがボランティアの数である。日加学園はボランティアで成り立っている組織であるから、ボランティアが沢山いて当然と言えば当然であるが、理事を始め、事務、印刷、図書、特別科目講師の皆さん、そして献身的な先生方、と単なる学校を通り越した素晴らしい人々の集まりである。
その素晴らしい集まりの一員に加わる事が出来て、僕は幸運であったし、皆さんに感謝している。

日加学園は親達が子供達の為に作った「手作り」の学校だ。その中で育ち、卒業して行く子供達は、その「手作り」の味を自然に身に付け、やがていつかどこかでその味を自然に思い出してくれるものと思っている。
この他にもワセガビーチでの夏のキャンプ、クリスマス発表会、卒業生夕食会、卒業式、ボランティア親睦会、ビーバー文庫、成人教室、などなどいろいろ書きたい事はあるが、これ以上書くと二十周年記念誌担当の藤田元理事に「長すぎるやんか」といわれるので、この辺で止めておこう。
楽しかった事ばかり書いて、日加学園が何を教える学校か書くのを忘れたが、まあいいだろう‥‥アッハッハッハ。
学園への想い 浜場 真喜子
1978年に創立された日加学園は現在生徒総数200名余り、教員数(アシスタントを含む)25名の大所帯の日本語学校である。
私が日加学園で教師、校長として日本語教育に携わって35年になる。
校長に就任した時は全生徒数60名弱の小さな学校であった。 8月末になると「先生、9月から学校大丈夫ですか?」と保護者の方が心 配してくださった。
「教育には全力で取り組み、最後まで諦めない。」を、モットーに教育 の現場を歩いてきた。厳しい経営状態であったが子供たちの顔を見れば 心が落ち着き笑顔になれる、子供達は不思議な力を持っている。
やりくりには日頃から慣れているのであまり苦にならないが、子供た ちの教育においては先生方と議論を重ね常に子供たちことを第一に考え 「後悔することのないように。」いつも自分に言い聞かせてきた。心配 して何かと手助けをしてくださる多くの保護者の方、優秀な先生方と一 緒に「子供たちに日本語教育を」と、強い信念と熱い思いのもと、一丸 となって取り組み、何事も最後まで諦めないで歩いてきたから今の日加 学園があると思っている。
ある先生が 「校長先生、学校の事で夢にうなされることはないですか。私はうなさ れて飛び起きる事があります。」と、言われ私の顔を見つめられた。 私は笑いながら 「数えきれないくらいありますよ。学校に勤務するようになってからホッ トした日はないかもしれません。何度泣いたか分かりません。ストレス が溜まると体調が悪くなりますが、不思議と土曜日の朝は元気になりま す。帰宅するとまた具合が悪くなりますが、言いたい事が言えたらどん なに心がすっきりするでしょう。校長職は孤独ですよ。耐えることばか りです。言いたいことはすべて飲み込むのです。だから、体重は増える ばかりです。でも学校で子供たちの顔を見ると全てを忘れて3時間楽し く過ごせるのです。子供は好きです。」と、言った事を懐かしく思い出 すが、今も同じである。
毎年6月卒業生に涙声で別れ、9月には新入生に笑顔で話しかける繰 り返しである、何時までこの繰り返しが続くか分からないが、子供たち が待っている日加学園で勤務することはとても幸せな時間である。 35年前、日加学園に教師として勤務する道を選択したことは間違って いなかったと自信を持って言える。子供達と一緒に過ごせる有意義な時 間をいただき、人生の午後も過ぎ夕日を背に歩いている私にこんな素晴 らしい時間を下さった日加学園に感謝している。
子供たち、学校に何か恩返しが出来る事があるだろうかと日々考える この頃である。